
博多どんたく港まつりは、福岡市で毎年5月3日と4日に開催される、日本を代表する大規模な市民祭りです。その起源は約840年前に遡り、時代とともに形を変えながらも、市民の熱い思いによって受け継がれてきました。この記事では、博多どんたく港まつりの詳細な歴史を紐解き、その魅力に迫ります。
起源:博多松囃子
博多どんたく港まつりの起源は、平安時代の末期、治承3年に始まったとされる「博多松囃子(はかたまつばやし)」という伝統的な民俗行事に遡ります。元々は、新年を祝う行事として、地域を治める領主への年始の挨拶として行われていました。
初期の祭りの様子は、福禄寿、恵比須、大黒天の三福神に扮した人々が馬に乗り、稚児と呼ばれる子供たちが舞を披露しながら練り歩くというものでした。稚児たちは「言い立て」と呼ばれる祝言を歌いながら行列に華を添えました。この初期の祭りの様子は、当時の社会構造を反映しており、地域社会の安寧と繁栄を願う人々の思いが込められていました。
江戸時代の博多松囃子
江戸時代に入ると、博多松囃子は福岡藩の藩主である黒田氏への年始の挨拶として、正月15日に行われる年賀行事として定着しました。
この時期には、「通りもん」と呼ばれる行列が福岡城へと向かい、三福神と稚児を先頭に、趣向を凝らした衣装を身につけた博多の町人たちが続きました。また、この頃には、人形を飾った装飾的な山車や舞台なども行列に加わるようになり、祭りの賑やかさが増しました。藩主への敬意を示すとともに、町人たちの活気と創造性を発揮する場となっていたのです。
さらに、松囃子の一行を迎える家々や商家は、「一束一本」(いっそくいっぽん)と呼ばれる杉原紙一束と白扇一本を三方に乗せて贈る習慣がありました。これは、祝いの気持ちを表すとともに、祭りの参加者と地域住民との間の交流を深める役割を果たしていました。
明治時代の転換:禁止と「どんたく」の誕生
明治時代に入り、社会が大きく変化する中で、博多松囃子は一時的な苦難を迎えます。明治5年、明治新政府から派遣された県知事によって、祭りの過度な華美さが「金銭を浪費し、かつ文明開化にそぐわない」という理由で禁止されてしまいます。
しかし、博多の人々は伝統を絶やすことなく、明治12年に祭りを再開し、その際に「博多どんたく」と名称を改めました。この新しい名称は、オランダ語で日曜日や休日を意味する「Zondag(ゾンターク)」に由来すると言われています。この復活は、紀元節(2月11日)を祝う形で行われました。
明治政府による禁止は、伝統的な祭りが近代化の波の中で変容を迫られた出来事であり、その中で市民が主体的に祭りを再興し、新たな名前で受け継いでいったことは、地域文化の強さと柔軟性を示すものです。西洋の文化を取り入れる動きの中で、オランダ語に由来する名称が採用されたことは、当時の社会風潮を反映しています。また、天皇の誕生日を祝うという新たな意義が付加されたことも、明治時代の社会変革を象徴しています。
戦後の復興と発展
第二次世界大戦中には、博多どんたくも一時中断を余儀なくされました。しかし、終戦翌年の昭和21年には、「博多復興祭」として8年ぶりに復活し、戦後の復興への大きな希望の光となりました。昭和24年には、新憲法発布を記念して開催日が5月3日と4日に定められ、昭和37年には、市民総参加の祭りとして「福岡市民の祭り博多どんたく港まつり」と改称され、現代の形へと発展しました。昭和47年には「どんたく広場」が開設され、祭りは市民生活に深く根ざした、活気あふれるイベントとして発展を遂げました。
戦後の混乱期に、市民が力を合わせて祭りを復活させたことは、地域社会の連帯感と復興への強い意志を示す象徴的な出来事でした。また、開催日を憲法記念日に合わせたことは、新しい日本の出発を祝うとともに、平和な社会への願いを込めたものと考えられます。
主要な行事と伝統
現代の博多どんたく港まつりでは、5月3日の朝に、博多松囃子の行列が市中を巡り、祭りの幕開けを飾ります。両日には、様々な「どんたく隊」が、思い思いの仮装で市内を練り歩くパレードが繰り広げられます。
多くの参加者が、夕食の支度をしていたおかみさんが、祭りの音に誘われて思わず手に持っていたしゃもじを叩いて加わったという逸話に由来する、しゃもじを打ち鳴らしながら踊るのが特徴です。
また、戦後の昭和23年から運行されるようになった、花や電飾で飾られた「花自動車」も祭りの名物の一つです。市内各所には舞台が設けられ、様々なパフォーマンスが披露され、祭りのフィナーレには、観客も参加できる「総おどり」が行われます。
これらの行事や伝統は、時代とともに変化しながらも、博多の文化と人々の活気を象徴するものとして受け継がれています。かつての領主への敬意を示す儀式から、市民全体が参加し、楽しむ祭りへと変貌を遂げた現代においても、その根底には地域を愛する人々の思いが息づいています。しゃもじを叩くというユニークな習慣は、庶民の日常と祭りの熱狂を結びつけ、親しみやすさを生み出しています。
地域社会と文化への貢献
博多どんたく港まつりは、単なる賑やかな祭りというだけでなく、地域社会と文化にとって多岐にわたる重要な意義を持っています。長年にわたり、伝統的な踊りや音楽、そして祭りの持つ賑やかで楽しい雰囲気を継承し、次世代へと伝えていく役割を担ってきました。また、国内外から多くの観光客を惹きつけ、地域経済の活性化にも大きく貢献しています。
何よりも、この祭りは福岡市民にとっての誇りであり、地域の一体感を醸成する上で重要な役割を果たしています。戦後の復興期には、人々に勇気と活力を与え、街の再建を後押しする精神的な支柱となりました。
名称の変遷と意味
博多どんたく港まつりは、その長い歴史の中で名称を変化させてきました。起源である1179年頃には「博多松囃子」と呼ばれていました。明治12年頃に「博多どんたく」と改称されました。この「どんたく」という名称は、オランダ語の「Zondag(ゾンターク)」、つまり日曜日や休日を意味する言葉に由来します。
そして、1949年には「港まつり」という言葉が加えられ、「松囃子どんたく港祭り」となり、1962年からは「福岡市民の祭り博多どんたく港まつり」という現在の名称で親しまれています。
この名称の変遷は、祭りが時代とともにその意義や役割を変化させてきたことを示しています。
関連する人物と団体
博多どんたく港まつりの歴史には、多くの人物や団体が関わってきました。起源である博多松囃子の時代には、平重盛がその死を悼むために始まったという説があり、戦国時代には小早川秀秋が博多の町人による松囃子の祝いを受けた記録が残っています。
江戸時代には、福岡藩主である黒田氏が松囃子の行列を受けました。現代においては、福岡市民の祭り振興会が中心となって祭りの運営を行っています。
また、戦後の復興期には、福岡商工会議所が祭りの再興に尽力しました。現在では、博多松囃子振興会をはじめ、様々な市民団体や企業、学校などが「どんたく隊」として祭りに参加しています。
視覚的な歴史:ポスターと写真
博多どんたく港まつりの歴史は、過去のポスターや写真などの資料からも垣間見ることができます。50周年記念式典では過去のどんたくポスターが展示されました。また、明治時代から昭和にかけて運行されていた「花電車」の写真は、当時の祭りの様子を伝えています。1937年には、博多どんたくの様子を描いた鳥瞰図も制作されました。
これらの視覚的な資料は、祭りの衣装や装飾、参加者の表情、そして街の風景の変化を映し出しており、祭りの歴史を多角的に理解する上で貴重な情報源となっています。
まとめ
博多どんたく港まつりは、1179年に始まった博多松囃子を起源とし、時代とともにその形態と名称を変えながら発展してきました。
明治時代の禁止や第二次世界大戦による中断を乗り越え、戦後の復興期には市民の熱意によって再興され、1962年には現在の「福岡市民の祭り博多どんたく港まつり」という名称になりました。
現在では、国内外から多くの人々が集まる日本を代表する祭りとして、博多の地域社会と文化に深く根ざした存在となっています。